085 ジョブズの本気、世界を変える(その2)
1984年~
ジョブズがゼロックス社 パロアルト研究所(PARC)を見学して 「ここは宝の山だ。なぜ商品として発売しないんだ」なる有名なエピソードがある。本によって記述がまるで異なっている。暫く不思議に思っていたが、異なる人物と何度か出掛けていたことが分かった。
考えてみれば当然だ。ジョブズがPARCを1回しか訪問していなかったはずがない。最初は1979年、ジョブズ24歳のときのようだが、その後何度か訪れている。
スカリーとジョブズ(1984年) ※1
見学コースとして誰でもPARCを見学することは可能だ。しかし、誰も神の啓示など受けるはずもない。そもそもメインフレーム・ミッドレンジレベルのコンピュータであり、ジョブスはこれをパーソナルコンピュータにアイデアを結びつけたのは、寝ても覚めてもPCのあるべき姿を考え続けていた結果だ。イノベーションとは、既に存在しているものに新たな生命を息吹することでもある。
幾度の失敗を繰り返し、1984年1月 初代Macintoshを出す。
ジョブスはジョンスカリーを引き抜いた。「一生砂糖水を売り続けたいのか、それとも私と一緒に世界を変えたいか?」とても有名な名文句だ。
盛田昭夫の逝去直後に開かれたアップルの特別イベント(1999/10) ※2
スカリーをアップルに迎い入れてから暫くは、蜜月の期間があった。禅なる美に興味をもつジョブスは、スカリーと一緒に日本に来ている。この頃の東京は、ガラケーで音楽を聴いている若者が街中を歩いていた。キャノンとの交渉、ジョブズが大好きなソニーにも出掛け、親子ほどの年齢差がある盛田昭夫氏とビジネス談話をしている。発売前のCD WalkManをプレゼントされて上機嫌で帰国している。勿論、ジョブズはWalkManを分解し 部品残らずチェックしている。
アップルとソニーの関係は、本来ならば出せるはずの成果を出し切れずに終わった。スティーブがまもなくアップルを去ってしまい、戻ってきたときは、もうソニーに盛田氏はいなかった。[ジョブズ・ウェイ P228]
ジョブズとスカリーは会社の為に戦ったが、大企業の考えのスカリーは、ジョブスの行動を理解できなかった。1985年5月、ジョブズは失脚する。
この時点では、ジョブズにとってスカリーを引き抜いたことは大失敗だった。自分の作った会社を追われることになるからだ。コンピュータのことを知らない人間をCEOにしても経営は上手くいかない。これはスカリー本人も後日談で語っている。
「ジョブズ・ウェイ」著者 ジェイ・エリオット ※3
[ジョブズ・ウェイ/ジェイ・エリオット著]では、スカリーがジョブズを閑職に追いやった前後のストーリーを実に詳細に記載している。ジョブズよりずっと年上である著者ジェイは、上級副社長としてジョブズの補佐役をしていたからだ。
脚色されたドラマより実話は非常に強烈だ。その後、ジョブズはNext社を起こすことになるが、やはりその情熱と執念は常人ではない。1985年9月17日 ジョブズは辞表を提出、自宅に集まった報道陣に「恋は終わった」と告げた。[ジョブズ伝説 P203]
アップルヒストリー(クリックで拡大)
写真
※1 ジョブズを翻弄したジョン・スカリーとは何者か
※2 2030年の経営者たちへ (9)
※3 「ジョブズ・ウェイ」著者に聞く