ジョナサン・アイブ #2
1980年初頭~2019年
137 アップル天才デザイナー ジョナサン・アイブ
(前回からの続き)
ロバート・ブルーナーは優秀なデザイナーを集めていく。そこにジョニーことジョナサン・アイブもいた。その数名のデザイナー達は のちに登場するアップルのヒット製品を生み出していく。
スノーホワイト フロッグデザイン 初代Macintosh(1984)
ブルーナーが来てからのアップル製品は、フロッグデザインから徐々に変化していく。ジョブズなき後のアップルは製品が氾濫し、PC以外にプリンターやスピーカー、CDプレーヤー、NEWTONなるPDA等が乱立していた。おまけにエンジニア中心の職場でありデザイナーの意見はなかなか聞き入れられなかった。
初期デザインのNewton(左)、その後アイブが手掛けたNewton(右)
ブルーナーはこれを逆転させたかった。まずデザインありきで製品を開発する発想だ。
余談だがPC機器やプリンター等で日本のソニーやキャノンが登場する。この頃は日本はとても強かったからね。
アイブのデザインによる20周年記念Macintosh
ブルーナーはアップル20周年記念マック発売(1997年)前に退職している。ことごとく自分の考えが潰されるアップルに嫌気をさし、やる気を失っていったからだ。ブルーナーの退職の噂は社内を混乱させた。実際、ブルーナー退職前後に2人のデザイナーも辞めている。
そんな混乱の中、ブルーナーの良き右腕だったジョニーがブルーナーの後任を務めることとなる。まだ29歳だ。
Windows95発売時の大フィーバー
時代はマイクロソフトのWindows95が市場を席巻し世界的な大ヒットとなっていた。Windowsは大企業から中小企業だけでなく、一般家庭にまで広く深く浸透していった。
確かに当時はWindows一色だった感があった。秋葉原でWindows95発売時はカウントダウンさえ行われた。私はカウントダウンに並ばなかったけど、数週間後にはWindows3.1からWindows95に移行してしまった。と言うより、移行する強い気持ちはなかったけど、新しいWindowsを購入したらWindows95になってしまったからなんだ。
ギル・アメリオ 著(1998年)
当時のアップルは40を超える製品が存在し、製品が混乱し販売不振に陥っていた。アップルは窮地に追い込まれていた。
ギル・アメリオ著書「アップル薄氷の500日」によれば、ギル・アメリオがCEOに就任する直前、既に取締役会はアップル社の売却を検討していた。この頃のアップルは倒産寸前であり、まさに身売りを検討するほど危機的状況だったことが分かる。
しかし、CEOとなったアメリオはアップルの売却を反対し、アップル再建に可能な限り情熱を傾けた。そう考えるとアメリオこそアップルの再建の基礎を作った人物だと思う節も少なからずある。その代表例に1996年ジョブズをアップルに特別顧問として復帰させている。
しかし、アメリオはデザインに対する理解が低く、復帰したジョブズと直ぐに意見が対立する。アメリオは僅か500日でクビになる。このあたりの経緯は本の著者が変われば表現が異なる。どれが正解かは分からない。相手の立場で考えれば、表現は変われどどれも正しのかもしれない。(欄外の余談参照)
半透明のeMate(1997年3月)、このあとiMac(1998年8月)が登場する
このようにアップルが揺れ動き、上司ブルーナーが退職し、ジョニーは夢を維持できず自分も辞めようと思っていたようだ。
しかし、1997年にステーブ・ジョブズがアップルに復帰する。このタイミングは まるでドラマを見ているようだ。(続く)
【関連】
087 ジョブズの本音、死ぬほど怖かった
(余談)
オラクル創業者ラリー・エリソン「カリスマ」下巻497頁に、エリソンは「(ギル・アメリオは)スティーブ・ジョブズに遠く及ばない」と公言している。
エリソンに言わせると・・・「自分(ギル・アメリオ)をドクターの肩書つきで呼んでほしいと主張するなど、正気の沙汰とは思えない。私はドクター・アメリオと呼ぶように気をつけているが、つい『風邪気味なので、なにか薬をくれませんか』と言いたくなる」と、皮肉をまじえた記述がある。
アップルヒストリー(クリックで拡大)