1985年頃~
一太郎と言えば、かって日本語ワープロソフトの圧倒的シェアを誇った企業だ。
徳島のローカル企業でありながら日本国内は勿論、米国マイクロソフトに果敢に戦った勇者だ。徳島のジャストシステムには徳島県中心に優秀なエンジニアが集結し、MS-DOSの時代 日本語ワープロと言えばジャストシステム一太郎となった。
国も公的文書は一太郎を推奨し、WindowsになってからもMicrosoft Wordより一太郎を後押しした。
企業が国に提出するためネットからダウンロード出来る文書ファイルは、今はワードかエクセルが定番だが、一太郎の時代もあった。
創業者、浮川和宣社長とシステム担当の奥様初子専務の二人三脚ストーリーは、当時NHKでも特集され、その開発ストーリーを見た私は強い感動で胸が熱くなったものだ。それほど一太郎の開発には熱いドラマがあった。勿論、当時のパソコン専門誌にジャストシステムは頻繁に登場した。
国内では圧倒的知名度とユーザー数を誇ったジャストシステムのピーク時には、一太郎を筆頭に、花子(グラフィック)、三四朗(表計算)、五郎(データベース)など多数の関連製品が並んだ。
日本国内において、MS-DOSの時代のジャストシステムは怖いもの無しだった。Microsoft Windiowsが市場を制覇し、Officeソフトを市場投入するまでは・・・だ。
MS-DOS時代は勿論、Windowsになってからも日本語変換はジャストシステムのAtokが圧倒的に使い勝手は良かった。初期Windowsの日本語変換には、エー・アイ・ソフトが開発したOEM製品MS-IMEが付いたが、どうも初期のIMEは変換能力がイマイチな発展途上の感はあった。
勿論、DOSからWindowsになってもジャストシステムはAtokを提供したし、私はそのAtokを一時期使用したこともあった。
自社独自のジャストウインドウを開発し、マイクロソフトと果敢に戦ったことは素晴らしかったが、あれよあれよとWindowsはシェアを伸ばしていった。ジャストシステムはジャストウインドウに拘りすぎた感もあり、Windiows対応に大きく乗り遅れてしまったようだ。
Microsoft Officeが登場し、それに対抗するかのようにJustsystem Officeを出すが、一太郎のシェアは下降線をたどるばかりだった。ジャストシステムの製品が劣っていた訳では決してない、むしろワープロ機能に関しては一太郎の方がワードより性能が上だったはずだ。マイクロソフトの方が戦略が上手だっただけだ。
WindowsなるOSを提供するマイクロソフト戦略は賢かった。既にMS-DOSなるOSを独占していたマイクロソフトは、次のOSをWindowsにすべく全力投入する。シェアを獲得した後、ビジネスソフトを登場させ市場を囲い込んでいった。
ジャストシステム同様に表計算の雄、ロータス1-2-3も同様だった。ロータス社のシェアも下降線をたどっていく。ロータス社はジャストシステムと一時期同盟を組むが、マイクロソフトの販売戦略はその上を行っていた。
上記の内容は、当時の私の完全な私見だ。当時を振り返っての感想だ。創業者である浮川夫妻のあくなき挑戦は称賛に値すると強く感じる。日本にこんな起業家精神あふれた凄い人がいたことを忘れちゃいけない。
2009年10月 浮川夫妻は辞任表明する。その後も一太郎はバージョンアップを繰り返していくが、ジャストシステムを創業し、一太郎を誕生させ、一時期マイクロソフトに果敢に戦ったことを知る一人として、強い虚しさを感じた。まさに盛者必衰を強く感じる。
何だかなあ~